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すまい&町並み 今昔物語



第一章 東京下町風景への旅


(01-01) 文京区根津界隈 地形と街づくり


写真・解説 並木克敏






根津 地形と街づくり 目次 
 
 根津の現在


 消え行く古い町並みと民家
豪華で華麗になった根津神社 
 人情の厚い町 根津

 根津の地形

 根津の地形的な位置
 坂道と段丘のある町 根津
藍染川が流れていた町 根津 

【 根津の歴史と街づくり 】
 
徳川綱重の下屋敷のあった町 根津 
根津神社のある町 根津
根津遊郭のあった町 根津 
 
 





根津の現在


【 消えゆく古い町並みと民家 】


根津といえば「根津神社」, 根津神社といえば「ツツジ祭」が有名ですが, 古

い家並みを残す町の姿もまた, 根津の魅力の一つでもありました。私が

1993年に訪れたとき, 特に根津二丁目には町屋や民家が単体としてでは

なく, まとまった一塊の群として残されていました。藍染通りには, 格子の付

いた古い町屋が軒を連ね, 美しい街路の風景を創っていましたし, 曙ハウス

のあった横丁の両側には, 小さな民家がびっしりと建ち並んで, 生活の香り

を漂わせてもいました。そしてさらに, 横丁から一歩路地に入ると, 長屋の

玄関脇に小さな樹木を植え, 格子の桟に鉢植えを吊るしたりして, 狭いなが

らも生活の潤いを演出していたのでした。

あれから18年の歳月が流れ, 今回再び訪ねてみると, 藍染通りの町屋は,

ほぼ消滅していましたし, 曙ハウスのあった横丁も, その殆どがマンション

や空き地に代わっていました。かつて群として存在していた町屋や民家は,

歯の欠けたように所々に単体としてしか残されていなかったのです。

   
藍染通りの商家群 1993年撮影 曙ハウスのある横丁 1993年撮影 





【 豪華で華麗になった根津神社 】



根津ニ丁目が昔日の面影を失っていくのとは対照的に, 根津一丁目の根津

神社だけが, より豪華により華美になっていったように見えます。1993年に

は, 真っ直ぐな笠木だけの素朴な鳥居であったものが, 現在は両脇に灯篭

を配し, 反りのある堂々たる鳥居に代わっています。しかも, 鳥居から楼門

へと至る参道は, 1993年当時には, 道路からも見えるようなシンプルな構成

でした。現在の参道は, 前面と左右を樹木で覆うことで楼門を隠し, 境内の

内部をうかがい知ることができないようにすることで, 神社全体の神秘性を

創り出しています。さらに1993年当時には, 鳥居から楼門の前までは, 参道

だけでなにもなかったのですが, 現在は東西の池をつなげ, そこに欄干の付

いた反り橋を架けています。こうして根津神社は, 短期間の間により豪華に

より華美に変身したのでした。古い町屋や民家の建ち並ぶ町並みが一つ一

つ消え, 魅力を失いつつある根津二丁目界隈は, どうすればいいのでしょう

か。串揚げ処はん亭と染物丁子屋の二軒だけで, 人を引き寄せることがで

きるのでしょうか。

 
1993年当時の参道 2011年現在の参道 





【 人情の厚い町 根津 】



古い民家や町並みが, 一つ又ひとつと消え行く根津二丁目ですが, よそ者

を受け入れてくれる懐の深さは, 今なお健在です。串揚げ処はん亭には, 道

路脇にベンチが置かれ, 道行く人のためにタバコの吸殻入れも用意されて

います。藍染通りの古い店先の前には, 切り株が二つ置かれ, 「椅子として

ご休憩にどうぞ」との張り紙があります。そればかりではありません。通りす

がりの人に行き先を尋ねると, 待ってましたとばかり愛想のよい返事が返っ

てきます。また, 横丁で立ち話をしている二人のおかみさんの間に, いきな

り割って入っても, 昔からの知り合いかのように, なんの警戒心もなく振舞っ

てくれます。さらには, 藍染通りで古い町屋を取り壊している解体屋さんに,

二十年前の写真があると声を掛けると, 興味深そうに現場から出てきたりも

しました。根津の古い町並みを歩いていると, よそ者を受け入れる温かい雰

囲気が, 溢れているように感じられます。マンションに建替えられた地域に

は, 冷たい隙間風が吹いているだけで, この雰囲気はもはや感じられませ

ん。これは, 今もなお地縁が生きているからと思われますが, 根津二丁目に

人を引き寄せるための貴重な財産のようにも思われます。

   
串揚げ処はん亭   藍染通りの店先にある切り株





【 根津の地形 】



【 根津の地形的な位置 】


根津は, 西の湯島・本郷台地と, 東の上野・日暮里台地に挟まれた低地に

あります。現在の根津は, 南北に「不忍通り」が, 東西に「言問通り」が, 町

の中心を十字形に横断して, 主要な交通手段となっています。西側には湯

島・本郷台地の「本郷」と「弥生」, 北側には「千駄木」が隣接し, 東側には上

野・日暮里台地の「谷中」, 南側には上野の不忍池へと続く「池之端」が位

置している。



根津全図


赤線内 根津全域  青 藍染川  斜線 崖線
 





【 坂道と段丘のある町 根津 】


根津の地形は, 二つの台地の間にあって, それらの高低差を結ぶ部分が,

普通に見られるような坂道だけではなく, 段丘(崖線)という特徴もまた見ら

れます。左の写真は, 東側の谷中の善光寺坂 (上野・日暮里台地) から, 根

津一丁目交差点付近を見た坂道の風景です。交差点の向こうには, 東京大

学に向かう弥生坂 (湯島・本郷台地) があり, 根津の町が二つの台地の間

に挟まれた低地であることがよく分かります。右の写真は, 根津二丁目付

近から, 谷中の三浦坂を見ています。坂の上には, 少し怪しげな大名時計

博物館があります。


   
根津一丁目交差点付近  谷中へ向かう三浦坂



一方段丘は, 湯島・本郷台地に接する西側にあり, 根津神社から言問通り

まで続き, 根津一丁目と段丘下の弥生の町の大部分が, 崖線となっていま

す。「根津の町全図」の斜線で示してある部分が「崖線」です。そのため, か

なりの急勾配の階段や坂道をいくつか設けて, 段丘の間を二つの町の住民

が行き来しています。


湯島・本郷台地の段丘 根津一丁目を結ぶ急勾配の階段 





【 藍染川が流れていた町 根津 】


根津の町は, 縄文時代前期の約6000年前には, 温暖化によって海の水位

が上がり, 東京湾の深い入り江となっていました。弥生時代になって海が後

退すると, 藍染川が一筋の流れとして残されます。藍染川は, 駒込の染井

あたりを水源とし, 千駄木と谷中と根津の町の境を通り, 不忍池に注いでい

ました。 この川沿いの道は, 不忍通りが開通する明治の中ごろまで, 南北

を結ぶ主要な交通路であり, 「谷根千」の母なる川でもあったそうです。現在

の藍染川は, 大雨が降るたびに水が溢れるため, 大正時代に暗渠化されて

しまったので, 今は見ることはできません。それでも, 千駄木と谷中が接す

るところには, 「へび道」と呼ばれる異常にくねくねした道路があって, 藍染

川の痕跡を残しています。「根津の町全図」で青線で示された部分が, かつ

ての藍染川です。藍染川は, 「へび道」から谷中ニ・一丁目と根津二丁目の

間の道路に沿って流れ, 染物丁子屋の軒下を通り (東京ふるさと歴史館 「

明治39年の藍染川」), 不忍池に向かって南下していました。


   
「へび」道 左・千駄木 右・谷中  染物丁子屋の軒下を流れていた 



その流れは言問通りを横切り, 茨城県東京宿泊所 (現・老人ホーム) の脇を

通り抜けてしばらく行くと, 急に細い路地に突き当たります。それまで川と道

路が一体であったものが, ここでは藍染川だけが流れ, 右側の根津二丁目

と, 左側の池之端四丁目の境目を作ってます ( 神田川まる歩き「合流・不

忍池(2) } )。藍染川は, この細い流れを出て, 上野公園の不忍池に注いで

いました。


細い路地に突き当たる  現在幅120cmの路地 





【 根津の歴史と街づくり 】




【 徳川綱重の下屋敷のあった町 根津 】


江戸時代の初期に, この「東京下町への旅」に登場する地域では, 本郷や

湯島の一部に町屋があっただけで, 根津はまだ湿地帯の農村であったとい

われている。根津が町としての体裁を整え始めるのは, 徳川綱重が根津の

地を下屋敷と定めてからであった。徳川綱重は, 三代将軍徳川家光の三男

で, 兄は四代将軍家綱, 弟は五代将軍綱吉という間柄です。綱重は, 兄の

家綱に先立って35歳の若さで他界してしまったが, 弟の綱吉に子供がいな

かったので, 綱重の長男綱豊が弟の養子となり, のちに改名して六代将軍

徳川家宣となりました。

1651年, 兄の四代将軍家綱により, 三男の綱重は甲府を, 四男の綱吉は館

林を拝領され, 綱重は甲斐国甲府藩の大名となりました。それと同時に, 徳

川綱重は江戸城内の上屋敷のほかに, 1652年に根津を「下屋敷」に定め,

さらに1654年には現浜離宮の地を拝領して別邸としました。なお, 綱重の

長男綱豊は, 身分の低い女中・お保良の子として, 1662年に根津の下屋敷

で生まれています。そのため, 世間をはばかって家臣に一時預けられたの

でが, 九歳のとき世嗣として呼び戻されました。


根津神社・駒込稲荷神社 徳川綱重の邸内社





【 根津神社のある町 根津 】

根津神社の前身は, 駒込千駄木の団子坂上にあった社殿で, 徳川綱重は

長男綱豊を抱いて, この社殿に宮参りしたと伝えられています。五代将軍綱

吉は, 綱豊を世子とした際に, その氏神であった旧社殿に屋敷地を献納し,

1706年に本祠を移し根津権現を造営したのです。根津神社には, 綱豊の胎

盤を納めた胞衣塚(えなづか)が, 乙女稲荷の脇にありますが, この塚は下

屋敷時代に作られたものと思われます。


 根津神社本殿





【 根津遊郭のあった町 根津 】


1706年(宝永3年)の根津神社の移転に伴い, 神社の門前には, 町屋二町

(根津門前町, 根津社地門前)と, 茶の接待をする坊主衆の拝領町屋敷(根

津宮永町)が造られました。町屋や町屋敷の建築に伴い, この地区に職人

らも出入りするようになると, 次第に料理茶屋などが置かれるようになり, 門

前町としての賑わいをみせるようになりました。宝永5年にはすでに遊郭が

現れ, やがて江戸有数の岡場所となっていきました。しかし, 1842年の天保

の改革で, 根津遊郭は撤去され, 新吉原へと移転させられました。それでも

明治2年には再び復活しています。1882年(明治15年)の調査によると, 吉

原1019人, 根津688人, 品川588人の娼妓がいたというから, 根津遊郭の盛

況振りがうかがえます。明治20年に再び廃止され, 今日当時の面影を偲ば

せるものは殆どありません。ところが, 「北見楼」という小見世の入口部分が

かつて賑わいを見せていた根津神社の付近に唯一保存されています。弓

なりの破風板とそれを支える木組が, 当時の玄関の姿を残しています。なお

屋根部分の「唐破風」は, お上のお許しをえて付けることのできた, 庶民の

ための遊びのシンボルでした。唐破風は, もともとは武家住宅の玄関を飾る

格式のシンボルであったのですが, 歌舞伎座, 遊郭そして銭湯の三つの庶

民の建物にだけ, 遊びのシンボルとして許されていたのです。


   
昔を偲ぶ「北見楼」の唐破風  唐破風は庶民の遊びのシンボル 



下の写真は, 1993年に偶然に池之端二丁目で映した民家です。この民家

は, 根津一丁目の交差点から, 少し不忍池寄りのところに, 建っていました。

ところが, 「谷根千ウロウロ」によれば, この建物は「根津遊郭の名残」とい

うことらしいのです。しかしながら, 二階部分が道路から一段後退したごく普

通の民家で, 藍染通りあった町屋と較べてもかなり繊細さに欠けています。

「北見楼」が遊郭のど真ん中にあったのを想えば, この「根津遊郭の名残」

は場末の社交場のように見えます。引手茶屋から遊郭に繰り出す旦那衆を

横目に見ながら, 小銭を懐にして通っていた, 若き日の古今亭志ん生師匠

のような客が想像されて大変面白いです。現在は建替えられいて, 写真で

しか知ることができません。


根津遊郭の名残 池之端二丁目








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