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懐かしい 「東京の住宅」 今昔物語



第一章 東京下町風景への旅


(00) 江戸と東京の街づくり 概観


写真・解説 並木克敏







【はじめに】



江戸の開発は, 平安時代kの後期に武蔵国の秩父地方から出た, 「江戸重

継」によって始められ, 桜田の高台 (のちの江戸城) に居館を構えたのが始

まりでした。室町時代になると江戸氏に代って, 関東管領扇谷上杉一族の

有力な武将でもあった「大田資長」 (のちの大田道灌) が江戸の地に入り,

江戸氏の居館跡に江戸城を築きました。その後, 扇谷上杉一族に代わり江

戸を支配したのは, 小田原から進出した「後北条」でしたが, しかしながら後

北条も, 1590年の小田原の役で豊臣秀吉に滅ぼされることとなりました。こ

こに, 江戸幕府の基礎を築いた徳川家康の登場となるのです。徳川家康は

, 豊臣秀吉により江戸の開拓を命じられると, 居城を駿府 (静岡) から江戸

に移し, 一地方の城下町から, 日本の中心都市・大江戸に造り替えることに

なります。





【 江戸の地形 】


江戸の地は, 関東平野西部の多摩川と隅田川に挟まれた武蔵野台地の東

端にあり, 武蔵国と下総国の国境にある隅田川の河口の西に位置していま

す。両国国技館で有名な「両国」の地名は, 武蔵国と下総国の国境にある

ところからきています。当時の江戸からすれば, 隅田川から東に広がる平

地は, 下総国と呼ばれ, 江戸の範疇には入らない田舎という位置づけでし

た。
地形からすると江戸は, 武蔵野台地
高台から, 隅田川西岸の低地へ

と広がる
傾斜地を主な基盤としていたのです。江戸は, 武蔵野台地にあっ

て中小の河川に削りだされた「台地」と河川沿いの「低地」, それに隅田川

河口の江戸前島と呼ばれていた「平地」からなっています。この「東京下町

風景への旅」に登場する地形は, 「湯島・本郷台地」と「上野・日暮里台地」

それに二つの台地に挟まれた河川沿いの「低地」です。湯島・本郷台地に

は, 「湯島」と「本郷」があり, 上野・日暮里台地には, 「上野桜木」と「谷中」

と「日暮里」があります。そして, 不忍池と河川沿いの低地には, 「根津」と「

池之端」が位置しています。江戸とは意外にも, 平坦な土地柄ではなく, 凹

凸の激しい傾斜地の多い地形だったのです。



 内藤 昌著「江戸と江戸城」(鹿島出版)より





【 江戸の改造 】


徳川家康が, 江戸改造を着手する以前には, 現在の地形とはいくつかの点

で異なっていました。最も大きな違いは, 現在の銀座付近が「日比谷入江」

という遠浅の海であったことです。この「日比谷入江」は, 新橋と京橋の間

から皇居の近くまで, 舌を伸ばしたように入り込んでいました。家康が天下

を取ると, 江戸前島では手狭のために, 「日比谷入江」を城下町の一部とす

るため, 埋め立ての大事業に着手しのです。JR御茶ノ水駅付近は, 現在で

も神田の町を見下ろす高い台地 (駿河台) となっていますが, 当時はこの一

帯を「神田山」と称していました。「日比谷入江」を埋め立てるための盛土は

この「神田山」を取り崩して運んだのです。





 神田神保町方面から神田山(駿河台)へ至る男坂と女坂




家康の死後, 二代将軍秀忠は江戸の北東の守りを確保するために, 湯島か

ら神田山までつながっていた台地を堀割って, 人口の谷を通し「神田川」と

しました。これが, 江戸城の北の外堀です。今日見られるJR御茶ノ水駅から

水道橋駅にいたる掘割の風景は, このときに作られたのです。ここで扱って

いる「東京下町風景への旅」は, 江戸城外堀 (神田川) のさらに外側に位置

しており, 当時は江戸の周辺地域の一つでしかなかったのです。


 神田川と掘割に懸かる聖橋 (山田守設計)



三代将軍家光は, 手薄となっていた西の守りを固めるために, 溜池や神田

川に注ぎ込む小川の谷筋を利用して, 溜池から赤坂, 四ッ谷から市ケ谷を経

て牛込に至り, 神田川と接する江戸城外堀をほぼ完成させました。






【 江戸の街づくり 】


1603年(慶長8)に, 徳川家康が征夷大将軍になると, 江戸を日本の中心都

市として位置づけ, 本格的な街づくりが始まりました。江戸城本丸, 西の丸

などの内堀には将軍以下, 世子, 大御所の御殿が造られ, その西の吹上に

御三家の屋敷が置かれました。内堀の外には,譜代大名や外様大名の屋

敷, それに旗本・御家人が住まわされたのです。そして, この大名屋敷や武

家屋敷の東から, 江戸湾にいたるまでの日比谷入り江埋立地まで町人地

が広がっていました。これらの町人地の中で, 日本橋, 京橋, 神田の町は,

のちに江戸本町とか草創地と呼ばれるようになりました。




▼ 1632年(寛永9年)の江戸の範囲

緑 武家地  赤 町人地  
白 社寺地
 内藤 昌著「江戸と江戸城」(鹿島出版)




【 明暦の大火後の江戸 】


1640年頃には江戸城の工事は完成し, 江戸の都市建設も一段落すること

になったのですが, そこに1657年の明暦の大火に見舞われることになりま

す。江戸城の天守閣が炎上し, 江戸の町はことごとく焼き尽くされてしまい

ました。大火後, 江戸城近くにあった大名屋敷や社寺は, 外堀や周辺地域

へと移転させられました。明暦の大火を契機にして, それは同時に江戸の

町が急速な復興を遂げることにもなったのです。江戸への人口の集中に伴

い, 江戸城外堀の周辺部にまで拡大を始めるようになりました。隅田川対

岸の深川や永代島が都市化され, 上野や浅草や芝などが寺社の門前町と

して栄えるようになったのです。18世紀初頭には, 江戸の人口は百万人を

超え, 世界一の大都市にまで発展したました。当時ヨーロッパ最大の都市で

あったパリでさえ, 人口は5〜15万人ほどでした。ヨーロッパの都市は, 中世

の強固な城壁で囲まれていたので, 人口1万人を超える都市は少なったの

です。

 
▼ 1849年〜1865年の江戸の範囲

緑 武家地
  赤 町人地  白 社寺地
 
 内藤 昌著「江戸と江戸城」(鹿島出版)





【 明治以降の東京 】


1868年, 明治政府の誕生により江戸は「東京」と改称され, 武家地・町人地

という名称が廃止され, 東京15大区制に再編されました。大名屋敷などで

仕えていた武士は故郷に戻り, 屋敷は庁舎や学校などの公共建築に姿を

変えたのです。








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